手塚統のはちみつトマト日記

はちみつを使ったトマトの栽培、しいたけの栽培、趣味のMOTOR、など徒然に。

函館ラーメン0.5

函館ラーメンの歴史は古い。

日本で最初にラーメンを食べたのは徳川光圀水戸黄門)であるとする説がある。
1659年(万治2年)に明から亡命した儒学者朱舜水水戸藩に招かれた際に、所持品リストにラーメンを作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。
1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある。
この説に基づき復元したラーメンは新横浜ラーメン博物館にある。

しかしこれは時代が古すぎるし、今の国民食となったラーメンとはかけ離れた存在である。

明治時代を迎えると神戸、横浜、函館などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばがラーメンの始まるとされる。

1884年明治17年)に函館新聞に、函館の船場町にある中華料理店養和軒が、南京そばを15銭で提供を始める広告を出した。
大正の頃まで提供したとされている。
他のラーメン産地からは、当事の関係者は既に亡くなっているし、証拠が乏しいとの批判も有るが、有りもしないものを広告に出すはずもなく、おそらくこれが日本初のラーメンである可能性は高いと思われる。

その後、1910年(明治43年)には、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町(現・横浜中華街)から中国人コックをスカウトして、東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店(当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ」という看板が見える)、味は醤油スープで、1杯6銭(現在で約300円相当)という値段も手頃で連日行列ができる人気は1976年(昭和51年)に暖簾を下ろすまで続いたという。

1914年(大正3年)には東京茅場町の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店と言われている。

札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店。
そこで働く中国山東省出身の料理人の王文彩が作る本格的な中華料理が評判となって店は繁盛し、常連客であった北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名。
麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増えたため後に製麺機になった。
当初、竹家のメニューの中でラーメンは中国人留学生には人気があったが、店のメイン料理ではなかった。
そこで日本人の口にも合うようにと大久タツが店の料理人の李宏業、李絵堂の2人に相談し、2人はそれまでの油の濃かったラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した。

当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れていたという醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様の具を入れたラーメンができていたといい、各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていったようである。

話が長くなったが、それほど函館ラーメンの歴史は古く、その名残は現在もある。

最近では観光客を考慮して、メニューに塩ラーメンと書く店が増えたが、ちょっと前まではラーメンとはすなわち、塩ラーメンのことであるから、ラーメンとしか書いてなかった。
他の味、醤油、味噌などは○○ラーメンと記されていた。

未だに漢字で書いている店もあり、振り仮名も「ラーミェン」とふってあったりする。

続く。