手塚統のはちみつトマト日記

はちみつを使ったトマトの栽培、しいたけの栽培、趣味のMOTOR、など徒然に。

バイクの話でも 2

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1976~77年バリー・シーン+RG500によってタイトルを制したスズキ。

その後も上位7人はスズキのライダーで占められたが、ケニー・ロバーツYAMAHAに1978~80年3年連続でタイトルを奪われた。

キング・ケニーを駆逐すべく開発されたのが「RGγ500」タイトル奪還の使者である。

ちなみにγ(ガンマ)とはギリシャ語で栄光を意味する「ゲライロ」の頭文字であり、最初から勝利を宿命づけられたマシンだ。

盛りだくさんの内容だが、82年のチャンピョン、フランコ・ウンチーニのインタビューの一部をピックアップする。




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「RGはオリジナルこそ真価を発揮」

79年僕は初めてRG500を買った、チーフメカニックはマリオ。今はコンピューターが最適なセッティングを弾きだしてくれるけど、当時はメカニック次第でバイクの良い悪いが決まってしまった。

他にもメカニックは居たけど、全服の信頼を置いていたのはマリオ一人。
そんなマリオの素晴らしさは、実は全くバイクをいじらないことなんだ。毎戦RGを完全オリジナル状態に整えてくれた。
自分で買ったバイクだから、どういじろうと自由なんだけど、マリオはかたくなにオリジナルに、こだわった。スズキからも「オリジナルがベストだよ」と言われていたし、実際それがベストだった。
いかにオリジナルな状態をキープするか、マリオはその点だけに集中して整備していたよ。

成績が悪いと、つい何かを変えて解決の糸口を探りがちだけど、マリオは、それをセッティングの範囲内に留めてくれた。そんなマリオを僕はとても尊敬しているんだ。
500cc初参戦の79年だったがプライベータートップのランキング5位。
さらに80年には4位に上げることができた、「基本が大事」これが一番だとマリオから教わったよ。

81年には一年落ちのファクトリーマシンを借り受けたんだけど、メカニックのマイク・シンクレアって人が改造好きで、エンジンからサスペンションまでいじり倒してあった。マリオもとても苦労していたよ。
最後まで、いいところがなく、ランキングも13位まで落としてしまった。

82年はマルコ・ルッキネリが抜けたチーム・ガリーナから誘われ、最新鋭のファクトリーマシンに乗ることになったが、「メカニックのマリオも一緒に入れてくれ」と頼むのを忘れなかった、それが承認されたのでタイトルを取れると信じて疑わなかった。

結果タイトルを取ったわけだけど、82年のRGΓは最高のバイクだった。スズキの設計者が優秀なのはもちろんだけれど、あの当時スズキには川崎裕之というテストライダーがいて、彼抜きには僕や、前年のマルコのタイトルは語れない。
彼が「OK」を出してヨーロパに送られてきたバイクは完璧に仕上がっており、完成度が高かった。
ベースがしっかりしていたので、現場でのセッティングもブレることがなかった。

その川崎さんが、83年はヤマハに移ることとなって「これはマズイことになるぞ」と思った。
その不安は83年に的中してしまった。


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この後はホンダの台頭、ヤマハの復活、ライダーもアメリカ人の時代となり、スズキはワークス活動を休止。

RGΓは落日を迎えることと、なったのである。

文中オリジナルの表現が多用されているが、工場から出荷したままと言う意味ではなく、一般ユーザー向けに言えば、サービスマニュアルに、このように調整してから乗って下さいとか、各部のメンテナンスはこのサイクルで、このように行なって下さいとか、こういう症状が出たときはこのように調整して下さいと書いてあるのを忠実に守るということだ。

メーカーの推薦値から、大きく外れたセッティングで、オリジナルの性能を上回る可能性は、極めて低い。